ゼロの氷竜 八話

ゼロの氷竜 八話


桃色がかった金髪を持つ少女が、あの誇り高い少女が、あの驚くような努力を積み重ねて
きた少女が、使い魔召喚と契約、二つの魔法に続けて三度目の魔法を成功させることを、
燃えるような赤毛と紅玉のような瞳を持つ少女、キュルケは確信していた。
だから不安に表情を曇らせることも、机を盾にすることもない。
しかしその確信は、ことのほか容易に、つい先刻教卓の上に置かれていた石と同じく、や
すやすと打ち砕かれた。
耳をつんざく爆音に驚かされる。
何故なら、それは石ではない何かに姿を変えるはずだったから。
驚きは思考を奪う。
そして本来行われるべき思考とは違う、第三者の視点に切り替わってしまった。
実際には声を発する間もなく突き刺さるはずの石の欠片を、キュルケの瞳はゆっくりと追
いかける。
視界を占める割合を徐々に大きくするそれを、キュルケはよけるでもなくただ見つめてい
た。
一体どういった力が加わったのか、平たい面を天井に向けた半球状の石は、恐ろしい勢い
で回転していた。
瞬きほどの短い時間で、間近まで迫る石。
向かい来るのはキュルケの顔。
鋭さを一部にのぞかせるその石は、瞳に当たれば失明を免れず、顔に当たればどのように
切り裂くのか。
鈍い傷口ほど、傷跡は醜くなる。
傷で済めば、運が良いのかもしれない。
そこまで理解していながら、キュルケの体はよけようともしない。
石が当たる直前、キュルケが出来た行動は歯を食いしばることと、きつく目をつぶること
だけ。



爆音が聞こえてからほんのわずか後、タバサの意識もキュルケと同じように、別の時間軸
に切り替わっていた。
いやにゆっくりと、回転する石が視線の先を飛んでいく。
学院の内外を問わず、唯一友人と呼べる人間の頭をめがけて。
石を防ぐ為に踏み出そうという意識も、防ぐ為に手を出そうという意識も、想起させるほ
どの時間の隙間は存在しなかった。
極端に視野が狭窄し、石とキュルケの姿しか認識できない。
目の前に広げた手のひらほどの距離が、考えを進める間もなく縮んでいく。
ふと気付けば閉じた手のひらほどの距離となり、瞬きを挟む隙間もなく、指の本数が基準
となる。
だが狭まる距離が指何本分になるか確認する間もなく、石はキュルケの目前に迫っている。
友人を守る猶予が、蝋燭の炎のように吹き消されていた。
タバサが出来たこと、それは誰かの白い手が、驚くほどの速度で友人へ向かう石を受け止
めたということだけ。



不安を集中によって押し殺していたルイズは、ルーンを唱え終わった瞬間に目を見開き、
教卓に乗せられていた石へと杖を振り下ろす。
それは、石ではない何かに変わるはずだった。
青銅や鉄、それどころか砂や粘土でも構わない。
ブラムドを召喚したことで、自分には変化が起こっているはずだ。
不安の中で、ルイズは杖へ全ての力を込めた。
結果として、それは災いをもたらす。
今までと何の変化もない反応をする、という災いを。
爆発した瞬間、ルイズは何一つ出来なかった。
爆風で吹き飛ばされ、後頭部を黒板に打ち付けること以外には。



爆風で吹き飛ばされる直前、シュヴルーズは温かな笑顔を浮かべていた。
爆風で吹き飛ばされる瞬間、シュヴルーズは温かな笑顔を浮かべていた。
爆風で吹き飛ばされた後も、シュヴルーズの笑顔は何一つ変わっていなかった。
なぜなら、ルイズの魔法が爆発を呼ぶことを知らなかったから。
そして、呼び出した使い魔が恐ろしく強力だと聞かされていたから。
元々体を動かすのが得意ではないにしても、その体は何の反応も起こさなかった。
笑顔のまま吹き飛ばされ、後頭部を床に打ちつける。
腰の前で合わせた手も、温かく見守る表情も、何もかも変わることなく、シュヴルーズは
意識だけをなくしていた。
その傍らで、ルイズは意識を失うことなく、ただ後頭部に走る痛みに耐えていた。
不意に、後頭部を抑えたルイズの手を離させる誰かが現れる。
誰か確認する必要もない。
記憶が色あせるほどの時間も経っていない。
ルイズの想像した通り、その手はブラムドのものだった。
傷の状態を確かめたブラムドは、それが大した怪我ではないことを確認する。
安心したブラムドは、一方からの騒ぎに気付かされた。



入り口近くにまとまっていた使い魔たちが、爆音のせいでメイジたちの制御から外れてい
る。
割れた窓を目指そうとする、飛べる使い魔たち。
臆病であったのか、混乱して暴れる使い魔たち。
本能を刺激されたのか、他の使い魔を食おうとする使い魔たち。
状況を収拾するはずのメイジたちだが、昨日の今日でどれだけ使い魔のことを理解できる
だろう。
経験のなさから悲鳴を上げるか、慌てふためくばかりだ。
その様子を確認したブラムドはルイズの耳を塞ぎ、加減をした魔法を解き放つ。
『竜の咆哮(ドラゴンロアー)』
ブラムドが元々暮らしていたフォーセリア世界、その起源は一体の巨人から始まる。
世界そのものを生み出した巨人に名をつけるものはなく、それはただ始源の巨人と呼ばれ
た。
始源の巨人の死により、フォーセリアの大地、フォーセリアの神、そしてフォーセリア
竜は生み出される。
フォーセリアの神が火や水や風や土、それらが司る力を精霊として分化するより以前、神
と同じく始源の巨人から生まれた竜は、その身に様々な力を宿している。
炎によって傷つくことのない体、口から放たれる炎のブレス、鉄の剣を弾くほどの強靭な
鱗、そして魔力のこもる咆哮。
聞くものの心を乱し、恐怖を植えつける。
時にその心を砕き、狂わせ、死をもたらすこともある。
しかし弱く弱く加減したその咆哮が、瞬間的に教室内を満たす。
混乱していたものたちが、その声を聞いて逆に心を静める。
強者への畏れが、心を冷やす。
爆音で我を失っていた使い魔たち、それに慌てていたメイジたち、その全てがブラムドの
咆哮によって我に返る。
ブラムドが落ち着けたルイズ、そして混乱にいたっていなかったが、運よくその魔力から
逃れたタバサ以外、メイジと使い魔を問わず混乱していた教室は、改めて静けさを取り戻
した。



一部の生徒たちがシュヴルーズを起こした後も、教室内は静まり返っていた。
常であればルイズへ罵詈雑言が投げつけられるところであったが、主を守護する使い魔の
姿に口出しできるものはない。
何より、昨日ブラムドが召喚されたとき、その威容に畏れを抱かなかったものもいないし、
つい先ほどオスマンから宣告されたこともある。
安易に触れることなど、出来はしない。
意識を取り戻したシュヴルーズは、マリコルヌの制止を聞かなかった自分を恥じているの
か、特にルイズをとがめることはなかった。
ただ、教卓近辺の惨状を放置するわけにはいかなかったのだろう。
爆発の衝撃で傾いてしまった教卓の片付けや、倒れてしまった最前列の机を直すことなど
をルイズに指示し、午前中の授業の中止を生徒たちに告げた。
教室を出る際、ルイズへにらみつけるような視線を投げる生徒も幾人かはいたが、怪我人
らしい怪我人もなく、使い魔が多少暴れた程度で済んだためか、それ以上のことをするも
のはいなかった。
ルイズもまた普段通りとはいかず、口の端を引き絞りながら眉根を寄せ、破片の飛び散る
床をねめつけるだけ。
タバサに続き、最後に教室を出ようとするキュルケはブラムドへ先刻の礼を言おうとする
が、その様子に気付いたブラムドは視線を合わせながらかすかに首を横に振る。
確かにそれを今この場でする必要はない、気付かされたキュルケはブラムドに対してわず
かに頭を下げ、無言のまま教室を後にした。
やがて足音が消え、教室内に沈黙が落ちる。
ブラムドは教室を離れた風を装う誰かと誰かの気配を感じながら、ひざまずいてルイズへ
と声をかけた。
「ルイズ」
その一言が合図であったかのように、ルイズはブラムドをかき抱き、声ならぬ叫びを上げ
る。
集中して杖を振り上げたとき、ルイズには一片の希望があった。
それは、途轍もなく強力な使い魔の召喚、そしてその使い魔との契約、二種の魔法を成功
させたことで、十年以上にわたる失敗の積み重ねを少しずつでも取り返せるのではないか
というもの。
その希望は、キュルケが退避しようともしなかった理由と全く同じもの。
諦めかけていたルイズの前に垂らされた、ブラムドという名の蜘蛛の糸は、紐よりも縄よ
りも、鋼鉄よりも強靱に見えた。
だがその蜘蛛の糸は、天上へつながってはいなかった。
ルイズに残されていたただ一つの希望は、高所から落とされた陶製の人形と同じ運命を辿
る。
少なくとも、ルイズにはそう思えた。
強大な使い魔を従えながら、一切の魔法を使うことのできない主。
使い魔との契約を済ませ、使い魔へ畏怖と尊敬を覚え、使い魔に相応しい貴族たらんとし
たルイズにとって、それは目標にはなり得ないものだ。
堰を切ったかのように止めどなく涙を流し、その身の全てで叫ぶ。
しかしその泣き声は、赤子のそれとは違う。
生まれ出でてすぐ、何もかもがわからぬままにただ助けを求める泣き声ではない。
生きる喜びを知り、生きる苦悩を知る、一個の人間の嘆きの声だ。
嘆きは言葉となり、言葉は単語となり、単語はさらに分解される。
「ぶっ、ぶら、むどっ!! ……わっ!! わった、わったしっ、きぞくっ……きっぞ、くに
なれ、ない!?」
ブラムド、私貴族になれない?
ほんの一言が、幾多の音に変わる。
それは、まるで涙の雨音のようだった。



長いような、短いような。
計るもののないその時間は、やがて終わりを告げる。
喉をしゃくり上げるルイズの耳元で、ブラムドが話し始める。
「ルイズ、お前は魔法を使うことができる。絶対にだ」
ルイズは泣き止みつつも、まだ返事をすることができない。
ブラムドへ絶対の信頼を置くとはいえ、先刻の衝撃から立ち直るにはもう少しの時間が必
要だろう。
「なぜお前の手に系統の魔法が乗らぬか、その理由を知らねばならん」
落ち着きを取り戻しつつあるルイズをいったん離し、ブラムドはその目元を流れる涙を舐
める。
頬をくすぐるその感触に、ルイズは思わず笑みを浮かべる。
「それができるのは、我しかおるまい」
「どっ、ど、うやって……?」
いまだ少し、声を操りきれないルイズが問う。
「この学院で、一番系統の魔法を知るものはオスマンであろう?」
ブラムドの問いに、ルイズがうなずく。
「なればオスマンに話を聞くしかあるまい」
「じゃぁ、学院長の部屋へ案内するわ」
その言葉に、ブラムドは首を横に振る。
「ルイズ、この状況を作ったのはお前だ。シュヴルーズの言うように、片付けぐらいはせ
ねばなるまい?」
言われて見回すルイズは、改めて惨状に気付かされる。
最前列の長机はいくつか倒れ、教卓は衝撃で傾き、爆発した石の欠片は四方に散らばって
いる。
「確かに、そうね」
「しかし、その細い腕ではできぬこともあろう。ルイズ、これが我の世界のゴーレムの一
つだ」
ブラムドは手に持ったままだった石を見せ、それにマナを通していく。
『石の従者(ストーン・サーバント)』
手から落ちた石の欠片は、その身を膨らませていく。
ブラムドよりも頭一つ分ほど小さなルイズ、それよりもさらに頭一つ分ほど小さな人型と
なったゴーレムに、ブラムドはルイズの知らぬ言葉で命令を下す。
『(倒れた机を他と同じように直せ)』
おそらくルイズ一人では手に負えない長机を、ゴーレムは軽々と元に戻していく。
大きさに似合わぬ力強さを、どこかほうけたような表情で眺めるルイズに、ブラムドが先
刻できなかった問いを口にする。
「ルイズ、お前はキュルケが嫌いか?」
ブラムドの口から不意に出た名前に、ルイズは不機嫌そうな顔を隠さない。
「嫌いよ」
「何ゆえだ?」
「あの女は、ずっと私を馬鹿にし続けてきたわ!! 魔法の使えないゼロだって!!」
先ほどと違い、悲しみではなく怒りにその顔をゆがめながら、ルイズは数ヶ月前までの出
来事をブラムドへ伝えていく。
「私が落ち込んでいるときに限って、くだらない挑発をするのよ!? 私はあの女と違って、
男といちゃついている時間なんかないのに!!」
ルイズの言葉に、ブラムドは笑みを浮かべながら得心する。
……なるほど、素直ではないのだな。
「ルイズ。我の言葉を聞いて、今一度思い返してみよ。お前ならば、我の言いたいことが
わかるであろう」
その言葉に不思議そうな表情を浮かべながらも、ルイズはブラムドの言葉を待つ。
「キュルケは他の連中と違い、机の下へ隠れはしなかった」
目を見開いて驚くルイズの頭をなぜ、ブラムドは扉へと向かう。
「では、食堂でな。お前がいなくては、我は飢え死にしてしまう」
その一言に、ルイズは頬を赤く染める。
それを見て微笑みながら、ブラムドは教室を出た。
外に出たブラムドは、扉の横に予想通りの人物がいることを見て取る。
少し頬を赤く染める燃えるような赤毛の少女と、友人の顔を伺いながらわずかに微笑んで
いるような空色の髪の少女。
ブラムドは二人に深く頭を下げ、二人もまたその意味を正しく理解する。



ブラムドの投げかけた最後の言葉に頬を染めながらも、ルイズはその優秀な頭を働かせる。
……キュルケは他の連中と違い、机の下へ隠れはしなかった。
それは実技を促したキュルケの言葉が、挑発ではなかった証だ。
だが、とルイズは思う。
今までずっと挑発を繰り返してきたのは何だったのか、と。
ゼロと呼ばれ、肩を落としていたときに限り、キュルケは話しかけてきた。
そう、キュルケが話しかけてきたのは落ち込んだときだけ。
思いかえしてみれば、キュルケに挑発された後は落ち込むことも忘れていた。
ブラムドの言葉を受けて尚、キュルケの行動の意味が理解できないほど、ルイズは鈍くな
い。
…………まさか!?
ルイズはキュルケの行動の真意に気付いた瞬間、言葉にならないほどの衝撃を受ける。
キュルケはシエスタと同じく、自分を励ましてくれていたのだと。
途端に恥ずかしさに頬を染めるルイズだが、彼女を責めるものはいるはずもない。
あからさまな拒絶の言葉や態度を投げつけられていた、キュルケ当人も含めて。
ルイズとキュルケは、ある意味で似たもの同士だ。
どこか素直さに欠けるという面で。
だからこそキュルケは友になって励ますことではなく、敵となって挑発することを選んだ。
ルイズはいまだ、キュルケの性格にまでは思い至っていない。
しかし自身のしてきたことが、無礼きわまることと理解するには十分だ。
恥ずかしさにルイズが首元まで赤く染めたとき、教室の扉が開く。
入ってきたのはキュルケとタバサだったが、ルイズはキュルケしか目に入らなかった。
扉の横でブラムドとルイズのやりとりを盗み聞きしていたキュルケは、自分が今までして
きたことが遠回しな励ましであったと知られ、恥ずかしさに頬を赤く染めている。
ルイズもまた、キュルケの今までの態度が悪意を持ってのことではなかったと知り、顔を
首元まで含めて赤く染めていた。
それでも素直さの足りない二人の少女は、互いの顔を見ながら口を開くことがない。
ルイズがキュルケの顔を見やれば、キュルケは恥ずかしさでうつむいている。
キュルケがルイズの顔を見やれば、ルイズもまた恥ずかしさでうつむいている。
一瞬、二人の視線が交錯すれば、二人は慌てて顔を背けてしまう。
素直になれない不器用な態度に、一人蚊帳の外にいるタバサは笑いをこらえるのに苦心し
ていた。
ルイズは考える。
……シエスタに言ったようにありがとうって言えばいい。
……でも散々罵声を浴びせておいてそれでいいの?
……男がどうしたなんて言ったこともあったわ。
……事実だとしても胸のことを言われたこともあったわね。
羞恥が焦燥を呼び、焦燥が混乱を生み出す。
キュルケもまた考える。
……散々挑発しておいて、あなたのためだったのよなんて言えるわけがない。
……私は気にしていないから、あなたも気にしないでなんて押しつけがましいにもほどが
ある。
……男がどうしたなんて言われたこともあったわ。
……事実だとしても胸のことを言ったこともあったわね。
結局、混乱に至る過程は大差がない。
収拾がつきそうにない二人を眺めながら、タバサは吹き出しそうになるのをこらえ、仕方
なしに水を向けた。
「食事に間に合わなくなる」
その言葉に促され、先に口を開いたのはキュルケだ。
「ル、ルイズ!!」
さまよっていた二つの視線がかみ合う。
その視線の持ち主の顔は、どちらもはっきりとわかるほどに赤く染まっていた。
「仕方がないから手伝ってあげるわ!!」
キュルケはルイズに何か言われたわけではない。
何が仕方なしなのか、とタバサは思った。
だが、混乱したルイズは思い至らない。
「じゃ、じゃぁ掃除道具を持ってくるわ!!」
二人の少女のちぐはぐなやりとりは、普段表情を浮かべることの少ないタバサを、しっか
りと微笑ませるに十分な威力を持っていた。