おかえり

「イル・ウォータル……」

ルーンに従い、傍らの壺から水が立ち上がる。
それは軋むような音を立て、男の前で氷の壁に姿を変じた。

「トライアングルのアイス・ウォールだ!! 平民ごときに打ち砕けると思うなよ!!」

ジュール・ド・モット伯爵、水のトライアングルである彼は、自らの屋敷に襲撃を受けて
いた。
たった一人の平民による襲撃を。
だがそれはただの平民ではなく、ハルケギニアではない別の世界で、伝説と呼ばれるコッ
クだった。

「お前の始末はガーゴイルどもがつけてくれる」

その言葉に、部屋の隅に置かれていた三体の彫像が動き出す。
人の姿に近いながらも、その鋭い爪と二メイルを優に超える巨躯は、人ではないことを主
張している。
ただの平民であれば、対抗の手段などない。
剣や斧を持っていたとしても、固体化のかかっているその体には通用しないだろう。
恐怖に震え、おののいている間にその心臓を貫かれるだけだ。
透明度の高い氷の壁に守られたモット伯にとって、これから行われるのは残虐なショーの
はずだった。
しかし目の前の、長い黒髪を後頭部で縛った平民は、面倒くさそうにため息をつく。
そして右の手のひらを天井に向け、ガーゴイルたちを誘う。

「やってしまえ!!」

平民にあるまじき無礼な態度に、モット伯は怒声をあげる。
その言葉で、ガーゴイルたちが平民へと襲いかかった。
瞬きほどの隙間もなく、鋭利な光を放つガーゴイルの爪が平民の頭へと向かう。

……素手の平民にガーゴイルを打ち倒す術など……。

モットがそう考えた瞬間、平民がガーゴイルの爪を右手で払いながら躱す。
驚くモットが声を上げる間もなく、払った右手でガーゴイルの腕を掴んで引き、足を払う。
突進の勢いが、別の方向へ逃がされる。
頭と体の位置が反転し、ガーゴイルは地響きを立てて床へと落とされた。
その重さが一点に集中した結果だろう、固体化の甲斐もなくガーゴイルの胴が砕ける。

「馬鹿な!?」

というモットの叫びを背中に浴びながら、残るガーゴイルたちも平民の命を吹き消そうと
する。
正面から突き出されたガーゴイルの右腕を左手で払い、すりあげるように持ち上がった平
民の右手がガーゴイルを一瞬持ち上げ、そのままその頭を床へと突き刺し、易々と砕いた。
目と口を大きく開いたモットは、驚きのあまり声を出すことも忘れている。

三度目に突き出されたガーゴイルの右腕は、平民の右腕にとられ、ねじ切られた。
時計回りに体を動かしながら足を払い、ガーゴイルを跪かせた次の瞬間、今度は逆回転に
回りながらねじ切った腕をガーゴイルの頭に叩きつける。
腕と首が同時に砕け、吹き飛んだ頭がモットの作り出したアイス・ウォールに突き刺さっ
た。
甲高いような、重苦しいような独特の音を立て、アイス・ウォールが砕け散る。
平民が、どこか楽しそうにつぶやいた。

「ホームランだな」

その言葉の意味を、モット伯は知るよしもない。
再び杖を握り、ルーンを紡ぎ出す。
だが恐慌を来しながら魔力がつきるまで打ち出された水のジャベリンは、とうとう平民の
身を傷つけることはなかった。

夜が明けたとき、シエスタは訳のわからぬうちに暇を言い渡された。
目や頬を青く染め、疲れ切った表情と口調のモット伯から。
もしかして、とシエスタは思った。
かつて魔法学院で貴族の少年から自らを救ってくれたあのコックが、と。
急ぎ魔法学院の厨房へと向かったシエスタは、いつものように料理を作る男の姿を見た。
普段と変わらぬ笑顔を浮かべ、唐突にいなくなり、唐突に戻ってきたシエスタに驚くこと
もなく、あまりにも普段通りの彼の姿を。

「おかえり、シエスタ

「ただいま、マルトーさん」