ゼロの氷竜 四話

ゼロの氷竜 四話


学院寮の一室、学院長のはからいで夕食を運んできた黒髪のメイドは、部屋の主とその使
い魔が食事を取った後も自然に部屋へと残っていた。
部屋の主、その使い魔、黒髪のメイドの三者が揃い、部屋の主が他の二者を互いへと紹介
する。
学院のメイドではあるが、自身の大切な友人と紹介された黒髪のメイドは、照れくさそう
に顔を真っ赤にしていた。
銀髪の使い魔は学院長との取り決めに従い、遙か東方のメイジとして紹介された。
学生たちが使い魔召喚の儀式から戻ってきた折、部屋の主を探していた黒髪のメイドは他
の使い魔を見ており、鳥でも獣でも魔物でもない銀髪の使い魔を紹介され、驚きの表情を
隠すことが出来なかった。
銀髪の使い魔が特に水を向けたわけではないが、いつしか部屋の主が黒髪のメイドと友人
になったきっかけを話し始め、黒髪のメイドは真っ赤になって照れる。
部屋の主が黒髪のメイドのちょっとした失敗を披露すれば、黒髪のメイドは部屋の主のち
ょっとした秘密を暴露する。
互いが顔を赤くしながら話し合い、邪魔し合う。
その様を、銀髪の使い魔が微笑みながら眺めている。
あたかも仲の良い姉妹を見る母親のように。
やがて部屋の中にふとした沈黙が落ちた。
二つの視線が絡み、そしてそれが部屋の主へ向く。
視線の先から、その姿がなくなっていた。
「ルイズ様?」
という黒髪のメイドの言葉に、銀髪の使い魔は視線を下げる。
ベッドの上で、部屋の主が幸せそうに眠っていた。
銀髪の使い魔が主を抱き上げ、黒髪のメイドが服を着替えさせる。
銀髪の使い魔が主をベッドに横たえ、黒髪のメイドが毛布で部屋の主の体を隠した。
「それでは」
とささやいた黒髪のメイドは部屋を出て振り向く。
「あの」
振り向きかけた銀髪の使い魔に、黒髪のメイドの言葉が投げられる。
「ルイズ様を、よろしくお願いいたします」
「任せよ」
短い一言だった。しかし黒髪のメイドと合わされたその瞳で、黒髪のメイドへまっすぐ放
たれたその一言で、黒髪のメイドは銀髪の使い魔を信じることを決めた。
そっと頭を垂れ、黒髪のメイドは学生寮を去る。
銀髪の使い魔は幸せそうに眠る主の顔を眺め、優しく頭を撫ぜた。
主は口の中で何事かをつぶやき、目覚めることなくさらに深い眠りの奈落へと滑り落ちて
いくようだった。
やがて明かりを消した銀髪の使い魔は主の眠りの邪魔をしないよう、そっと窓から外へと
出る。
『飛翔(フライト)』
二つの月が、銀髪を煌めかせていた。
一度学院の上空を回り、ひときわ高い塔の上へとおり立つ。



真実の鏡から開放された衝撃で、ほぼ常に眠っているような休眠期から活動期に入ったた
めか、それとも単に興奮が冷めないためか、ブラムドは人間の姿になった今でも眠気を感
じていなかった。
呪縛から解き放たれたこと、自由であることを確認する。
そのことだけで、今まで生きてきた中で一度もあり得なかった歓喜に満たされる。
逆に少し前までは、その歓喜と対をなすような憎悪の中にいたのだが。
再び飛び上がり、ブラムドは天頂にある月を目指し始める。
無論、月へと辿り着けるわけではないことはわかっている。
雲を抜けたブラムドは風をその身に受けながら、歓喜を表した。
言葉ではなく、叫びではなく、咆哮を解き放った。
口を開き、喉を開き、肺を絞るように。
雲を震わすように、月へ届けといわんばかりに。
歓びの歌を、高らかに。
真実の鏡に縛られていたころは、餌を求めて飛び立った直後に警鐘で呼び戻されることが
幾度も繰り返された。
ブラムドが守っていた宝を求める者は、絶えることがない。
輝くものを集めるのは竜の習性だ。
言語を解せない下位の竜でも、ブラムドのような上位種でも、それは変わることがない。
結果として、宝を求める盗賊の類は竜のねぐらへと絶えず足を運ぶ。
帰ってこない盗賊がどれだけいても。いや、だからこそといえるのかも知れない。
下位の竜が溜め込んだ宝でも、普通の人間が死ぬまで遊んで暮らすに十分だ。
ロードス島が狭いとはいえ、そこに五匹しかいない上位種が溜め込んだ宝はいかばかりか。
数ある魔法の品を処分すれば、国を興すことも出来うるだろう。
竜を討つなど痴人の夢よと評すものも、欲に駆られれば剣や杖を持つにいたる。
ブラムドの姿を見て逃げ去るものもいた。
ブラムドと話をして立ち去るものもいた。
だがそれらを上回るほどに、欲に目をくらませた人間たちは多かった。
いつしか、ブラムドのねぐらにはうずたかく詰まれた宝物と、それとさして変わらぬ高さ
の亡骸が詰まれることになる。
殺したかったわけではない。
喰らいたかったわけでもない。
それでも、呪縛がもたらす苦痛に耐えることは出来なかった。だが突然、それから開放さ
れた。
ブラムドの体を縛り付ける鎖はもう存在しない。
ブラムドの体をさいなんだ苦痛も存在しない。
いずこへ飛び去ろうが、頭の中で警鐘をかき鳴らされることもない。
魔法王国の魔術師どもに囚われるより前のように、どれだけ飛ぼうとも、海を越えようと
も、呼び戻す何者も存在しない。
胸の内から湧き出す歓びを、その歌を妨げるものは何もない。
歓喜が、ブラムドの身を震わせていた。
不意に、ブラムドの体が落下する。
魔法の効果が切れたのだろう。
雲の下へ出た瞬間、ブラムドは彼方に竜の姿を見ていた。
青空のような色をした竜は、その色にいた髪の人間を背に乗せていた。
落ちているブラムドを見て慌てたのか、竜はその翼を強くはためかせて近づいてくる。
ご苦労なことだと思いながら、ブラムドは竜とその主に任せるつもりになっていた。



学院寮の屋上、二つの人影と一つの大きな影が並んでいた。
「危ないところをすまぬな。礼を言おう」
「嘘」
少女の端的な言葉に、ブラムドは次の台詞を待つ。
「あんな高いところへ上がることはメイジにしかできない。ただ落ちていたときには気を
失っているのかと思ったけれど」
「魔力が切れていたのかも知れぬ、とは考えられぬか?」
面白がるようなブラムドの言葉にも、少女は表情を変えずに首を横に振る。
少女の想像通り、ブラムドには十二分な余力があった。
落下速度を制御するなり、再び飛ぶなり、竜の姿に戻るなり、やりようはいくらでも考え
られる。
それでも何もせずに落ちていたのには多少の理由がある。
少女の人となりを確認するという理由が。
ブラムドは気付いていた。
少女が自らの呼び出された場にいたことを。
それはつまり主の学友である可能性が高いということだ。
落下を制御して草原へ降り立つとき、ゆがんだ表情でルイズへ声をかけていた連中とは違
う態度をとっていた幾人かのうちの一人。
確か驚愕の表情を貼り付けていた幼い竜の傍らで、ただルイズへと視線を投げていた。
コルベールと共に去る少年少女たちの中で、ルイズへ挨拶をした人間はいなかった。
確信にまでは至っていないが、ブラムドはルイズが孤立しているのではないかと疑ってい
る。
「あなたは誰?」
思索の渓谷へ落ちかけていたブラムドを、少女の問いかけが引き戻す。
一瞬の沈黙。
それは迷いを意味していた。
だがブラムドは正直に言うことにした。
「我が名はブラムド」
「……あの韻竜?」
「ここでは喋る竜はそういうのか」
少女がうなずく。
ブラムドはそのまま少し待ったが、少女は何も言わずにブラムドを見つめるままだ。
素直に名を聞いても良かった。しかしブラムドは少女ではなく、傍らの竜へと問いかける。
人の言葉ではなく、竜の言葉で。
『幼子よ。そなたの名は?』
少女の耳に、うなるような、鳴くような、不可思議な旋律が飛び込む。
だが傍らの竜には、はっきりとした言葉として聞こえていた。
『きゅい、シルフィード。ブラムド様はその姿のままで竜の言葉がわかるのね?』
『さして難しいことではあるまい? まぁ竜と話すのは久方ぶりゆえ、言葉を覚えてい
るか不安があったがな』
少女の視線が、不可思議な旋律を交わす二者を行き来する。
『きゅい、ブラムド様。ブラムド様をおねにいさまと呼んでもよい?』
『おねにいさま? 奇妙な言葉だ。おねえさまではいかんのか?』
苦笑を浮かべるブラムドに、シルフィードは首を激しく横にふった。
『おねえさまだとタバサおねえさまと一緒になってしまうのね。ブラムド様をはじめて
みたときはおにいさまだと思ったけど、今は女の人なのね。だからおねにいさまだと思っ
たの』
『この学院には、他に竜の言葉がわかるものはおるまい? なれば竜の言葉で呼ぶ折に
はおにいさまでよかろう』
『わかったのね。おにいさま』
喜びをあらわにする使い魔に、困惑の表情を浮かべた少女。
少女がブラムドに問いかけようとしたところに、ブラムドは先手を打った。
「お前の名はタバサというのか」
再び投げかけられた言葉に、タバサは衝撃を隠せない。
表情の変化は僅かなものだったが、ブラムドがそれを見逃すことはない。
心持ち目付きを鋭くしながら、タバサは手に持つ長い杖でシルフィードに打撃を与える。
『いたいのね!?』
頭を叩かれたシルフィードの悲鳴に、ブラムドは笑みを隠せなかった。



「そう責めてやるな。お前と違って隠すことを心がけているわけではないのだから」
その言葉に、タバサの鋭い視線がブラムドへと向けられる。
ほんの一瞬でその視線は平静なものへと戻されたが、老齢の竜にしてみれば心の動揺を隠
しているのは明白だ。
「お前が表情を出来るだけ消していること、あまり喋ろうともしないこと、それは全て相
手を煙に巻く為のものだ」
タバサの表情や視線は変わらない。しかし耳が小刻みに反応していることで、ブラムドの
口の端が下がることはない。
「だが視線や体温、耳や鼻、手先や体の動きにまで気を配れていないところを見ると、習
ったものでもあるまい」
小さく、タバサの喉が動く。
「息や喉の動きもな」
タバサの首元がわずかに朱に染まるのを見ながら、ブラムドは喉の奥で笑う。
身の丈を超える長い杖、それを握るタバサの手に、わずかな力が加わった。
その表情や態度には、殺意ではなく義務感のようなものがかいま見えた。
愉しみのために人を殺すのではなく、生業として人を殺すもの独特の振る舞いだ。
「やめておけ」
緩慢な空気が、掻き消えていた。
ルーンを唱えようとした口が、凍りつくように止まっている。
タバサは、ブラムドの瞳に飲み込まれるような感覚におそわれていた。
そこに存在するのは底の見えない深淵。
淵に立つタバサを支えているのは二本の足のようでもあり、彼女のものではない手のよう
でもある。
再び、タバサの喉がわずかに動く。
殺意があるわけではない。
ブラムドはただタバサを見ているだけだ。
だが、それだけでタバサは手も口も動かせなくなる。
ふとブラムドの視線が外れ、タバサは呼吸することを思い出した。
震えだすことは抑えられたものの、額ににじむ汗は止めようもない。
空気の変化に気付けなかったシルフィードだが、ようやくタバサの様子に気付くと、気遣
わしげに頬擦りをする。
『おねえさま? 大丈夫なの? おなかいたいの?』
いたわるように鳴き声をあげるシルフィードを撫ぜ、タバサはそっと腰を下ろした。
視線を足元に下ろしながらも、口を開こうとし、また閉じる。
タバサの仕草に稚気をくすぐられながらも、ブラムドはそっとつぶやいた。
「汝のことを吹聴するつもりはない。主に聞かせるつもりもな」
ふっと安堵のため息をついたタバサに、竜の姿をした竜は楽しげに鳴き、人の姿をした竜
はそっと微笑んだ。



立ち去ろうとしたタバサに、ブラムドが声をかける。
「しばし待て」
タバサが見たブラムドの表情は、どこかいたずらをしでかす子供のそれに見えた。
「……動くなよ?」
『遠見(ビジョン)』
その瞬間、ブラムドの視力が増大する。
しばらく前から自分たちを見ていた視線の主を確認する為に。
……女。
……緑がかった銀の長い髪。
……眼鏡をかけている。
……ゆったりとした服を着ているが、立ち姿から多少なりとも鍛えているのが見て取れる。
……見たことのない顔だが、その目付きの鋭さは特徴的だ。
……オスマンやコルベール、タバサのように戦いをたしなむ者とは違う。
……気配の消し方も堂に入っている。
……とすれば盗賊か間諜の類。
……間諜ならばタバサが目的か。
……しかし視線は我へと向けられている。
……闖入者に探りを入れている程度のものか。
『魔力感知(センスマジック)』
……魔力を感じ取れるのならば魔術師か。
「そこな女」
……反応はない、か。
……であればこちらの会話を聞かれてはいまい。
むしろ反応があったのは傍らの一人と一匹だった。
向けられる視線に軽く手を振って応えたブラムドは、そのまま魔法を解く。
「タバサ」
「何?」
「彼方を見やる魔法というのはあるか?」
反射的に、タバサは口を閉じた。だが思い直したのか、素直に答えを返す。
「ある」
「我の左手にある建物の影に人がおる」
その言葉に、タバサは遠見の魔法を使う。
「何者かしっておるか?」
「ミス・ロングビル。オールド・オスマンの秘書」
「こんな時間に出歩くような秘書の仕事があるのか?」
ブラムドの言葉に、タバサはわずかに考えるそぶりを見せた。
「知らない。でも時々、夜見かける」
「夜半にか?」
小さく、タバサがうなずく。
「ほぅ……」
つぶやいたブラムドの口元に、薄く笑みが張り付いていた。
その表情を見たタバサは、先刻自身へと向けられていた笑みと、似ているようでどこか違
うような、奇妙な感覚におちいった。
「さて、ずいぶん遅くなってしまった。お前たちもそろそろ部屋へ帰るが良い」
言葉は柔らかなものだった。
表情も穏やかなものだった。
それでも、タバサはその言葉に逆らうことは出来なかった。
『おにいさま、さようならなのね』
タバサがシルフィードに乗って立ち去り、ブラムドが飛び去ったとき、ミス・ロングビル
は音もなく建物の影へと消えていった。
再び、学院に静寂が訪れる。



その後、ブラムドがルイズの部屋へと戻ったのは、日が昇り始める直前だった。